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味スタの春

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会長寄稿【オフサイドルール再考】

【2015.7.20  オフサイドルール再考その12を追加更新しました】

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オフサイドルール再考
  その1 
    

会長 長坂幸夫

オフサイドは真に奇妙な結果をもたらすルールである。
わずかにオフサイドラインを越えてオフサイドポジションにいた選手が
ボールを受け得点に成功したとき、選手は得点に成功した喜びを全身に爆発させてピッチ上を駆け回り、
チームのサポーターも驚喜して乱舞する。

その一方、主審と副審は守備側選手から抗議されたり、
試合後には判定の誤りを審判アセッサーから指摘されて愕然とする。
ときには、TV映像に判定の誤りが放映され後々まで語られてしまう始末にもなる。
しかし、選手にはルール違反をして得点したことへの罪悪感は微塵も存在しないかに見える。
このように選手を英雄に審判を失意のどん底へと突き落とす
オフサイドルールとは何ものであろうか、改めて考えて見たいと思う。

オフサイドは何故反則か

オフサイドルールの始まり

18世紀から19世紀にかけて英国の市や町の空き地で農閑期や土曜日に若者が行っていた
「空き地のフットボール」は学校教育の普及とともに「校庭のフットボール」に変わり各校で盛んに行われるようになった。

さて、フットボールのルールが登場するのは19世紀の中頃、イギリスのパブリックスクールである。
パブリックスクールはイギリス社会では上流家庭の男子が入る私立学校である。
在学年齢は小学生年齢から高校生年齢までが混在したもので、学力に応じて学年が編成されていた。
それぞれの地方に点在していたから、各パブリックスクールでは独自のルールを作り試合を行っていた。

例えば、オフサイドルールに関しては.次のようなものがあげられる。


ウェストミンスター校

第7条 チームから抜け出したり,離れたりするのは良くない行為と見なされる。
しかし、ルール違反ではない。

ラグビー校

第6条 オフサイドのプレーヤーはゲームに加わることは出来ない。
そして、いかなる場合でもボールに触れることは出来ない。

ハロー校

第4条 ボールがキックされた時、その位置より相手ゴールに近いところにいる同じチームのプレーヤーが
そのボールに触れたりキックしたりすればビハインドである。

ウェストミンスター校の第7条について詳述する。

第7条 Outsiding or offside was regarded as bad form, but was legal.
     チームから抜け出したり,離れたりするのは「良くない行為」と見なされる。
     しかし、ルール違反ではない。

このOutsidingとOffsideは同じような意味なのであるが
Offsideは味方の集団から離れることなのである。

サイドとは側という意味があるが、味方のチームを意味しているものと考えられる。
このことはラグビーの試合でタイムアップした時に敵味方がなくなり
ノーサイドになると言われることからも理解できる。

オフとは味方の集団から離れていることなのであるが、
味方チームから離れることは「良くない行為」としていることは、
プレーヤーのモラルとしての意味合いを感じ取ることが出来る。
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オフサイドルール再考―その2

何故、「チームから離れること」は良くない行為なのであろうか。

ウェストミンスター校で行われていたフットボールの主なルールは
次のようなものであったと言われている。

1. 空中にあるボールや最初のバウンド後のボールなら、蹴っても良いしまたキャッチしてもよい。

2. 相手に脚をかけて倒すこと,相手を蹴ること,相手に身体をぶつけて倒すことは許される。

3. ボールを持って走ることは絶対に許されない。

4. ゴールは蹴られたボールが2本の木の間を通過することによって得られる。

5. ボールを手で打つことは許される。

6. ボールがイン・タッチになった時、プレーは「グリース」か「スクラム」で再開される。

   7.チームから抜け出したり,離れたりするのは良くない行為と
           見なされる、しかし、ルール違反ではない。

この第7項を考えるには、当時のフットボールの試合がどんなものであるかを知る必要がある。

当時の試合の様子を描いた絵には、一つのボールに対して、数十人の選手が密集して争っている様子が描かれている。
そこには、現在のように11人の選手がポジションを定めてフォーメーションや戦術のようなものはないばかりか、
両チームの選手人数も異なりボールを追って、ただひたすら押し合いへしあい、ボールを蹴り合っている。
現在でいえば、低学年の試合に見られるお団子状態になって試合をしているのである。

そこで、この密集した集団から離れる選手はどうして出るのであろうか。
それは、ウェストミンスター校のルール第2項には、
「相手に脚をかけて倒すこと,相手を蹴ること,相手に身体をぶつけて倒すことは許される」
となっており、試合中に相手を蹴ることは認められているから怪我人が出ることはしばしばのことであった。
そこで負傷した選手は一時的に動けなくなったり、治療をしたりすることから自ずとチームから離れてしまうことになる。
やがて、その選手が回復し立ち上がった時には相手ゴールに近くいて、
そこへボールが飛んで来てプレーすれば容易に得点することになる。
そこで、このような行為は良くないと見なし禁止したのである。

しかし、第7項では「これはルール違反ではない」として罰則を置かなかったのは
「怪我が原因であった」ことが考慮されていたと考えられる。

ところが、中には怪我をした振りをしてうずくまり、ボールが来るや素早く立ち上がってプレーをすることもあった。
これは、ずるい卑怯な行為であるとしてオフサイドは恥ずべき行為と考えたのである。

また、次のような状況もあったと言われている。

「空き地のフットボール」から「校庭のフットボール」となったのであるが、
試合は現在のように長方形のラインが引かれて、その中でプレーするのではなく、
「空き地のフットボール」と同じように周囲を試合に出ない生徒たちが取り囲んで観戦し応援するのであった。
つまり人垣がグラウンドを形作っていたのである。
そして、この人垣の中にいた選手が突然飛び出してプレーに加わり得点しようとすることもあった。
これは、ずるい卑怯なプレーで決してやってはならないとしたのである。
パブリックスクールは英国の紳士を育成する学校なのである。
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オフサイドルール再考―その3

パブリックスクールの生徒たちはオフサイドについてどのような意識を持っていたであろうか。
そのことを知ることの出来る詩がある。

1883年、ロレット校の生徒は「オフサイド」と題する詩をつくった。
イギリスにFAが誕生したのは1864年であるから1883年には
FAの統一ルールのもとで試合は行われていたと考えられる。

ぼくはオフサイドがどういうことかって言うことを知っているから

今でも試合中に変なことをされると、そいつを「汚い奴」だと決めつけていってやるんだ。

「あの野郎、ちょっとオフサイドをやらかしたぜ」と。

そんなことをいつもする奴がいたら、自信をもっていってやるよ。

「お前なんか,蹴飛ばされることや、ぶんなぐられることや、泥の中に這いつくばることが恐ろしくて、
いつもスクラムの外でウロチョロして汚いことをやる奴さ」って。

だけど君は――だれのことかわかるだろう――密集の中に飛び込んで、

モールのおもしろさをたっぷりと味あうのさ。

なぜって、いつかはボールの感じがわかる時がくる、ということを知っているからさ。

そして君がよく知っている昔のフットボールのルールでやっていて

オフサイドなんかで勝つよりは,負ける方がましだ、

と誇りをもって言える男になっていくのさ。

オフサイドの位置でプレーする者は「汚い奴」、「恥知らずな奴」である。
「オフサイドで勝つよりは負けた方がよい」というフットボーラーの誇りとなり、フェアプレーの精神が形成されたことが判る。

この次期、オフサイドルールはフットボールの中でもっとも重要なものとなり、
このルールなしにはフットボールは成立しないものとなった。
つまり、フットボール(サッカー)とラグビーはオフサイドルールなしには存在し得ないのである。

大正時代の頃、日本の中等学校の生徒にとってはオフサイドは「恐ろしい」ルールと考えられていたようである。
その「恐ろしい」という恐怖感は反則を犯す「恐ろしさ」と同時に、反則した選手は「汚い、恥知らず」の者という
人格的蔑視を恐れたようである。

私は若い頃、昭和20年代からサッカーをやってきたが、
その頃、オフサイドは「待ち伏せ」とか「先回り」としてやってはならないと教えられた。
そこには日本人の持つ「待ち伏せ」は卑怯な行為であり、
「先回り」はずるい行為であるという日本人の考え方があったのである。
 
 

2013.9.3
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オフサイドルール再考_その4

 

オフサイドルールと戦術

 

パブリックスクールは英国の紳士教育の場であったから、
試合中にオフサイドの反則をすることは道徳規範に反する行為として許されないものであった。

その生徒達はパブリックスクールを卒業してケンブリッジ大学やオックスフォード大学に入ると、
互いに異なるルールを持ち寄っているため、必然的にルールの調整なしにはゲームが出来ないことになった。

1863年、ロンドンの旅館の一室に会したケンブリッジ、オックスフォード大学の学生、卒業生によって
統一ルールを制定しFAが誕生した。

この時、FAは統一ルール14条を制定したが、
その第6条に「ボールより前方の攻撃側選手はすべてオフサイドである」とした。

この当時のフォーメイションは8人のフォワード、1人のスリーコーター、
1人のハーフバックそして1人のゴールキーパーの11人のチーム編成であった。
1・1・8システムであった。

このフォーメイションとオフサイドルールから考えると、ボールより前方にポジションをとったり、
プレーするだけでオフサイドの反則になってしまう。
したがって、相手陣内に攻め込むためにはひたすらボールを前にドリブルするしか
前進することが出来なかったと考えられる。

つまりボールを大きく蹴って相手陣内に攻め込む戦法はなく、
ボール付近にプレーヤーが密集することが多くなり、
相手より多い人数をかけて相手側ゴール近くでボールを奪い攻撃に繋げるために
8人のフォワードという多くの人数を配置したものと考えられる。
ディフェンダーの役割は極めて小さかったのであろう。

今日の低年齢の子供たちの試合に見られる両チームが団子状に密集して
ボールを奪い合い相手ゴールに迫る試合を彷彿させるものであった。

そもそもフットボールは1点を争って、あるときは何日間も試合を続けたという。
つまり1点をどちらかが入れるまで争うゲームであった。
そのためルールは得点しにくいように作られた。これがフットボールの本質なのである。
ゴールを小さくしたこともそこに理由がありオフサイドルールも然りである。

FAカップが誕生するとフットボールの試合に対する要求は得点の機会を多くする方向へと変わり始めた。

1867年、FAはオフサイドルールを改正し、
「ボールと相手ゴールとの間に相手競技者が3人いればその選手はオンサイド」であるとした。
つまりボールより前方にいても相手競技者が少なくとも3人いれば違反とはならないとしたのである。

このオフサイドルール緩和の是非から緩和容認派と非容認派がたもとを分かつことになり
1871年、非容認派はラグビーユニオンを結成した。

1870年頃のフォーメイションは6人のフォワード、2人のハーフバック、
2人のフルバック、ゴールキーパーによる2・2・6システムあるいは1・2・7システムであった。

この時期のオフサイドルールと戦術とを考察すると、
それまでは不可能であったボールより前方にポジションをとったり、
前方へパスを出すことが出来るようになったのである。
そのためボールを奪ったら相手の守備体形が整わないうちに
素早くボールを相手陣内に蹴り込んで攻めるというキックアンドラッシュ戦法が行われるようになり、
ディフェンダーの役割がより重要となって来るのである。

2013.11.25
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オフサイドルール再考_その5

FA誕生の

  今回はFAの誕生の経緯について述べておきたい。

1863年にFAは14条からなるルールを定めて英国ロンドンで結成されたのであるが、
その経緯について述べておきたい。
その結成に至る背景には、当時のイギリス各地の
パブリックスクールで行われていた
フットボールがそれぞれ独自のルールで行われて
いたことがある。

パブリックスクールの卒業生がケンブリッジ大学に入ったり、
あるいは、クラブを
作ったりしたが対抗戦(対校戦)を行うときには
互いのルールが異なることが試合を
混乱させる原因となった。
そのため試合ごとにルールを話し会い合意を得なければ
ならなかった。
そこに、互いが共通したルールを持つ必要が起こってきたのである。

史実によれば1863年10月26日(月)、
ロンドン市内にある11のフットボールクラブや
学校の代表15人が集まって、
それぞれ独自のルールでプレーしているフットボールを
同じルールで行うようにするとともに、
この統一ルールでプレーするクラブを統括する
フットボール協会を結成しようというものであった。

この会合で話合われた内容の問題点は、

     ボールを手に持って走ること。

     ボールを持って走るプレーヤーに脚をかけたり,膝を蹴ったりして倒すこと。

この二つを容認するか否かが最大の問題点であった。

それはドリブリング・ゲームすなわち今日のサッカーにつながる手の使用を認めないものと

手の使用を認めるランニング・ゲーム、今日のラグビーにつながるものであった。

会議はこれを巡って、二つの派に分かれ、
以後、11月10日、11月14日、11月17日、
12月1日と
会合を重ねたがついに両派は合意することが出来ず賛否を問う投票になり、

ランニング・ゲーム支持派は13対4票の大差でやぶれこの会合を去って行ったのである。

大差で勝利したドリブリング・ゲーム支持派は12月8日に会合を開き
14条の統一ルールを
制定しフットボール協会(FA)を結成したのである。

 

その14条の中で両派の大きな争点となったと思われるルールは次の条文と思われる。

 

9条 どのプレーヤーもボールを手に持ったり運んではいけない。

第10条  トリッピングもハッキングも許されない。また、どのプレーヤーも相手をホールドしたり

押したりするために手を使用してはならない。

第11条 ボールを投げたり、手で他人にパスしてはいけない。

その後、この3条項を認めないランニング・ゲーム支持派は1872年ラグビーユニオンを結成したのである。

 

しかし、FAが結成されたからと言って直ちにこれに参加したかと言うと、そうではなく
当時のパブリック
スクールはむしろ、ランニング・フットボールの方が多かった。

それは男らしさを求めるパブリックスクールの伝統が重んじられたからであろう。

1871年~1872年に第1回のFAカップ戦が行われたが、その時の参加チーム数は15チームであった。

しかし、FAの役員であったC・Wオーコックが
「FAの目的の一つは普遍的なゲームの完成を妨げている
さまざまな障害を取り除くことである。
この目的のためにわれわれは地方的要素の導入を賢明に行い、

年ごとに目指す普遍的なゲームを目指すためのルールを整えること、
また、ゆっくりと互いに一致点を
見出しながらの法的な構造を整えてきた」と述べているが、
その効果は徐々に地方の学校やクラブの
賛同を得るようになり、
1883年~1884年のFAカップ戦には100チームが参加するようになったのである。

 

このC・Wオーコックの述べているルールの整備は現在もFIFAにひきつがれており、

それが毎年IFABが行う世界各地から集められた意見を元に行うルール改正である。

このことがあってサッカーは全世界の国と地方に広く普及したのであろう。

2014.3.11
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 オフサイドルール再考_その6

 

1863年に14条の統一ルールを制定してFAは誕生したのであるが、
オフサイドルールについては極めて厳しい条件の内容となっていた。
 それは第8条で「攻撃側の選手は味方の選手がボールをプレーしている時に、
そのボールよりも前方にいる限り自分と相手ゴールとの間に相手選手が何人いても
自動的にオフサイドとされる」ことになっていたからである。
 この条項がやがて緩和されていき、
1867年には「ボールと相手ゴールの間に相手競技者が3人いればオンサイドである」とした。
この3人とはゴールキーパーと2人のバックを指している。
 この「3人いればオンサイド」であるというルールは、
ウェストミンスター校などのパブリックスクールでは以前から認めていたから、
ランニングフットボール派がいなくなった以上、第8条を改訂したことに他ならない。

更に、1925年には3人から2人へと減らすルール改正を行うことになったのであるが、
その背景には、試合がドリブル主体からパスを使う戦術へと変わっていく中で、オフサイドの反則が起き易く、
その都度プレーが中断し得点しづらい状況が生じていたという事情があった。
 その上、オフサイド条項を逆手にとった特殊な守備戦術が考案された。
それは、1人のバックあるいは2人のバックが意図的に前進して攻撃側選手をオフサイドにするというものである。
  Notts Countyというチームが始めたという記録が残されている。
このチームは1862年に創設され1885年にプロ化し1888年のFAリーグ創設に参加した。

産業革命後のフットボールはイギリスからヨーロッパ各国へ、そしてアジア地域へと伝播し、
大衆化、プロ化が進んだことによって、試合をする者も観る者も得点のしやすい試合への要求が高まったのではなかろうか。

ゴールキーパーと2人のバックという守備体形は2バックシステムである。
背番号2RightBackRB),背番号3 LeftBackLB)と呼ばれた。
  この2人のバックはチームの最後尾に位置して守備専門の選手で一般的には体の大きい者が選ばれたものである。
RBLBの間にはおよそ30~40mの間隔があり
常に一方が前へ出れば一方が下がるという位置を保つ守備戦術であるから、
いわゆるゾーン・ディフェンスである。

当時の攻撃法は、最前線に1人の足が速く、ドリブルの巧みな、シュート力のある選手
即ちセンターフォワード(CF)を置く形であった。
  CFはボールが来たとき、常に2人のバックを相手にしなければならなかったのであるが、
この1925年のルール改正によってCFの前には相手守備者が1人になったのだから、
CFはプレーしやすく得点しやすくなったのである。

オフサイドのルール改正が日本に伝えられた時の日本サッカーの事情が
『日本サッカーのあゆみ』日本蹴球協会編(1974)に記載されている。
  1925年(大正14年)といえば、日本サッカー協会はまだFIFA加盟をしていなかったから、
ルール改正の通達はなく外電によって知ったのである。

それによると「1925年(大正14年)6月15日付けの外国電報でルールの改正が報道された。
その一つにオフサイドが従来3人とあったものが2人に改正された」というものである。
  そして「このオフサイドルール改正ということはサッカーの歴史の中でも非常に有名な出来事なのである。
このためにゲームが中断されることが少なくなり,プレーをしている者にとっても、
見ている側としても興味がグンと増え、そこにまた新しい攻撃法や防御法が生まれてきた」と記されている。
  事実、1926年(大正15年)以後、当時の試合の記録をみると得点が多いのである。
おそらくイギリスにおいてもヨーロッパの国々のサッカーの試合でも同じような状況があったと思われる。

ただ、日本では相手FWを意図的にオフサイドにするという守備の戦術を用いることはなかったと考えられ、
ごく自然なゲームの流れの中でオフサイドの反則が起こったものであろう。
それは、明治以来、日本のサッカーは教育の一環として旧制中等学校、旧制高等学校、
大学の校内スポーツ活動(部活動)として導入され発展したからであろう。
  しかし、オフサイドによって、しばしば、ゲームが中断することがあったことを伺い知ることが出来る。

さて、このような戦術(いわゆるオフサイドトラップ)は、
パブリックスクールではオフサイドを犯した選手は「スニーカーと呼ばれるほどの悪者」とされた程のことであるから、
相手選手の意思にかかわらず反則におとしめることは英国紳士を育てるパブリックスクールのフットボールでは決して許されない
極めて卑劣な戦術であったから、真に皮肉なこととしか言いようがない。
このネガティブな記録があまり残されていないのは、パブリックスクール出身者で作られた
当時のFA役員の苦渋に満ちた心の内を物語るものであろうか。
2014.5.9
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 オフサイドルール再考-7

会長 長坂幸夫

FBシステムから3FBシステムへ

オフサイドは唯一の戦術的禁止条項である。
この条項はサッカーのいかなる局面よりも観客の間に多くの混乱と不協和音を引き起こさせるものである。
また、レフェリーにとっては、その公正な運用が特に難しいルールだが、
競技の本質に関わるルールとして当初から成文化されているものである。

1925年(大正14年)に守備者を3人から2人へと減らすという画期的ルール改正によって
得点シーンが大幅に増加する効果をもたらしたが、勝敗を争う試合では如何に味方の失点を少なくするかが重要であった。
このことに関する興味深い記録が日本蹴球協会創立満50周年記念誌「日本サッカーのあゆみ」に残されている。

 

3FBの始まり

ベルリンの奇跡と呼ばれる日本代表がベルリンオリンピック1936年(昭和11年)で
優勝候補スエーデンに勝つことが出来た要因の一つとして、3FBシステムを短い日時で一応身につけたことがあげられている。
戦後の日本サッカー協会機関誌「Soccer」復刊第2号に竹越重丸氏は次のように書いている。

『ベルリンに到着してからドイツ人のチームと練習してみると,相手はいずれも3FBシステムを採用しているので、
にわかに自分たちも3FBシステムを採用することに決心し,短い期間で一大転回やりました。
それをマスターすることが出来たのは「考えるサッカー」に慣れていた賜物なのでした』と。

しかし、竹越氏はじめ当時の日本のサッカー界の先達者たちが、
ベルリンに行く前には全然これを知らなかったかといえばそうではない。
ただ、日本では一般には行われていなかったということである。

 

長坂謙三の発明

慶応では独創的に次のようなことをやっている。
これは1934年(昭和9年)に発行された東京府立五中(現都立小石川中等教育学校)
蹴球部OB会会報「蹴球」の創刊号に載っているものである。
本論文は長い文章であるので関係する部分のみを一部抜粋する。

  「ハーフバックより見たる攻撃および防御の一新法」

SH(サイドハーフ)は防御に際しては,敵のインナー1人を完全にマークし、
攻撃に際しては、直ぐに従来のCHのごとく飛び出してフォローを務める。
FBはピッタリとウイングにつく。
そのとき反対のFBは中へ寄るのは今までと同じだがいくぶん浅めにする。
大きい違いはCH(センターハーフ)がもっぱら敵のCFをマークすることに心掛け、
攻撃に際しても、その人を注意しつつ、
こぼれてくるボールはとられることなく味方のFWに与えるくらいに、わずかに前進する。
防御になれば速やかに戻って、CFの防御に専念する。
すなわち、このシステムは11人を5・2・3・1に分け、その各人の職務は決まっており、
かつ、攻撃にも防御にも合理的で厚みのある体形を敷くことが出来る。
私はCHを改めフルバックセンターと命名した。

 

純粋に私の方法で試みた試合は少ないのであるが、
第1例は1932年(昭和7年)早大とともに関西に遠征し強豪関学を5-4で破った試合と、
第2例は同じく1932年の早慶戦で早大に5-2で快勝した試合がある。

その他に私のシステムをもって慶応医学部は慈恵医大、千代田生命、東大医学部と試合し、
慶応病院チームは三共製薬、勧業銀行、日立助川製作所と試合し
第3回実業団大会に初参加し優勝しました。
このうち東大医学部との3-3の引き分け以外は全部勝ちました。
私はどの試合にもフルバックセンターをやり、
これはどのように動かなければならないかをいろいろ研究的にやり、
かつ、ハーフおよびフルバックの動き方も批判的にやりました。

 

この長坂健三の考え出した、5・2・3・1システムはその配置の形から後年WMシステムと呼ばれた。
また、3FBシステムともマンツウマンシステムとも呼ばれた。
このシステムがベルリンオリンピックへ行く前に日本国内で試みられていたことがあって、
ヨーロッパではすでに2FBから3FBになっていること()を目の当たりにして、
急遽、2FBから3FBに切り替えることが出来たものと考えられる。

 

私自身のサッカー歴から考えると、中学生であった戦後の昭和20年代前半は2FBで試合をやっていて、
高校生になって3FBシステムで試合をしたことを思い出すのである。
こうして見ると日本で3FBシステムが広く行われるようになったのは1950年(昭和24,25年)頃ではなかろうか。

 

追記 長坂健三は筆者の叔父に当たる。
 

 斉藤才蔵氏(関学OB)は1931年(昭和6年)に蹴球評論にイギリスだよりを書き、
その中でイギリスのフットボールリーグでは日本のシステムとは異なる
FWを4人にして守備を固めた陣形をとっていると記している。

2014.7.30
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 オフサイドルール再考-8

会長 長坂幸夫


オフサイドルールの基本

今回は一休みしてオフサイドルールの基本について述べてみようと思います。
オフサイドルールの理解は本当に難しいものです。
そこでタイトルを「オフサイドルールの基本」として、
あまりサッカールールに詳しくない方を対象にした説明を試みました。

     オフサイドライン
オフサイドライン

赤のユニホームが攻撃側、青のユニホームが守備側の選手を示しています。
ボールの前方には赤の1番と2番の選手がいますが、
赤1番はオフサイドの位置になり赤2番はオンサイドの位置になります。
その境は守備側選手の青Bになります。

このことを次のように言います。

 <1>赤1番はオフサイドポジション、赤2番はオンサイドポジションである。

 <2>GK・青Aから数えて青Bは2番目の守備者である。

それではオフサイドの反則はどのような時に起きるのでしょうか。

それはボールをキープしている赤の選手が前方へパスした時にそのボールが赤1の選手に渡った時に
赤1の選手はオフサイドの反則をしたことになります。
もし、パスされたボールがオンサイドにいる赤2の選手に行った時は反則にならないのです。

それでは赤1の選手が青Bと全く並行の位置にいてボールを受けたときはどうなるのでしょうか。
つまり赤1選手と青B選手が同じ横の線で並んでいる時です。
その答えは赤1の
選手はオフサイドの反則にはならないのです。

この目に見えない青B選手の位置する真横の線をオフサイドラインと呼んでいますが、
このオフサイドラインは青B選手の動きによって前後に絶えず動きます。
この青B選手の作るオフサイドラインは相手チームの2番目の守備者も作っていますから、
サッカーの試合は両方のチームが作るオフサイドラインの間で争っていると言えます。
そこで興味深いのは相手の動きによってオフサイドラインは絶えず前後に移動しますから、
二つのオフサイドラインの間隔は広がったり狭まったり、
それは、あたかもアコーディオンのように伸び縮みするのです。

タッチラインに沿って旗を持って動く副審はこのオフサイドラインと同じ線上に常に位置しながら移動して、
赤1と青Bとの位置関係を正しく見て赤1が少しでも青Bの前に出てボールをプレーしたか、どうかを見ているのです。

一瞬の判断をしなければなりませんからこの仕事が副審にとっては一番難しいところなのです。

2014.9.15
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オフサイドルール再考vol.2


オフサイドルール再考-9

会長 長坂幸夫


オフサイドルールの基本-2

オープンスペース



openspace
図の守備側選手青Bの背後に描いた白い丸の地域をオープンスペースと呼んでいます。

それは攻撃側選手も守備側選手もいない地域を言います。
攻撃側が得点を成功させるには、このオープンスペースを利用することが大切な戦術となります。

それは赤選手がボールをこのオープンスペースに蹴った時に赤1選手がボールを取りに行けばオフサイドの反則になります。
しかし、赤1の選手は動かず、赤2選手が青Bの選手をかわして走り込みボールを取った時は反則にならないのです。
それは赤2の選手はオンサイドの位置からスタートしたからなのです。

この青B選手の背後にあるオープンスペースがサッカーの試合の争点となっているのです。
このオープンスペースは青Bの選手が前進すると大きくなり後退すると小さく狭くなります。
そして、オープンスペースでFWがボールを得た時はゴールキーパーと1対1となる得点の絶好のチャンスとなるのです。
日本代表の岡崎選手はDFの後ろの狭いオープンスペースを常に狙っていて得点するのが得意なのです。

先日行われたアジアカップの決勝トーナメントの第1戦、日本対UAE戦において、
試合開始直後の日本の失点は、日本が相手陣地に攻め上がった時に生まれた大きなオープンスペースを鋭く突かれたことによるのです。
反面、日本は優勢でしたが得点を出来なかったのは、UAEのほとんどの選手が自陣にさがり
オープンスペースを作らなかったために日本には決定的なシュートチャンスが少なかったからだと言えます。


2015.1.25
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オフサイドルール再考―10    
                  
会長 長坂幸夫

 

この連載にもハーフタイムが入ったので、ここで前半を振り返りながら後半に入りたいと思う。

1864年に統一ルールとして14条のルールを定めて英国にフットボールアソシエーション(FA)が誕生した。
その重要なルールの一つにオフサイドルールがある。
 それは、唯一の戦術的禁止条項である。
その内容は、第6条「ボールより前方にいる競技者は全てオフサイドである」という極めて厳しいものであった。
しかし、試合はドリブルによる戦術からパスを用いる戦術へと変化して行く。
そのような状況の中で、1867年、FAはこの厳しい条件が緩和し、
「相手競技者が3人いればオンサイド」であるとし、ボールより前方にいても良いことになったのである。

FAが誕生してまだ3年という短い期間にもかわらずルールを変更したその背景には、
FAを構成したクラブには有力なウェストミンスター校などのパブリックスクール出身者がいて、
そこでは既に「守備側選手が3人いればオフサイドではない」というルールを設けていた事情があった。

 

オフサイドルールと戦術

1860年頃のフォーメーションは8人のフォワード、1人のスリーコーター、
1人のハーフバックそして1人のゴールキーパーというチーム編成だった。つまり1・1・8システムである。
 このフォーメーションからオフサイドルールを考えると、ボールより前方にポジションをとったり、
プレーするだけでオフサイドの反則となってしまったのである。
したがって、相手陣内に攻め込むためにはひたすらにボールを前方にドリブルすることしか出来なかったのである。

オフサイドルールが改正された後、1870年頃にはフォーメーションは6人のフォワード、
2人のハーフバック、2人のフルバック、1人のゴールキーパの2・2・6システムになって行く。

ルール改正によって、それまでは不可能とされたボールより前方にポジションをとったり、
前方へボールを蹴ることができるようになった。
そのためボールを奪ったら相手の守備態勢が整わないうちに素早くボールを相手陣内に蹴り込む
キックアンドラッシュ戦法が行われるようになり、ディフェンダーの役割が重要となってきた。

1925年、FAはこの「3人いればよい」としたルールを更に緩和して3人から2人へとルール改正を行ったのである。
その時代的背景には、試合がドリブル主体からパスを多用する戦術へと変わって行く中で
オフサイドの反則が起きやすく、その都度プレーが中断して得点しづらい状況が生まれていたことがあった。

その上、相手がボールを前方にパスしようとした時、フルバックの内の1人あるいは2人が意図的に前進して
相手フォワードをオフサイドの反則にするという特殊な守備戦術が考案された。
これが後年「オフサイドトラップ」と呼ばれる守備戦術である。

 

英国スポーツマンシップ(ジェントルマンシップ)の崩壊

この「1人のバックあるいは2人のバックを前進させて」意図的に攻撃側選手をオフサイドにする戦術に関する記録は少ないが、Notts Countyというチームが始めたという記録がわずかながら残されている。
このチームは1862年に創設され1885年にプロ化し、1888年のFAリーグの創設に参加した。

さて、その頃、パブリックスクールのフットボールの試合中に起こるオフサイドに対する意識を知ることが出来る詩が残されている。
1883年、パブリックスクールであるロレット校の一生徒が「オフサイド」と題する詩を残している。

 

ぼくはオフサイドがどういうことか知っているから

今でも試合中に変なことをされると

そいつを「汚い奴」だと決めつけて言ってやるんだ

「あの野郎、ちょっとオフサイドをやらかしたぜ」と

            -中略ー

オフサイドなんかで勝つよりは負けた方がましだ

と誇りをもって言える男になっていくのさ

 

パブリックスクールではオフサイドの位置でプレーするものは「汚い奴、恥知らずな奴」と言われた。
「オフサイドで勝つよりも負けた方が良い」というフェアプレーの精神が形成されていたことが伺える。

オフサイドを犯した選手は「スニーカーと呼ばれるほどの悪者」とされる位のことであるから、
相手選手の意思にかかわらず反則に陥れることは英国紳士を育てるパブリックスクールのフットボールでは
決して許されない極めて卑劣な戦術であったのである。

その頃つまり大正時代の頃、日本の中等学校の生徒にとってオフサイドは「恐ろしい」ルールと捉えられていたようである。
その「恐ろしい」という恐怖感は反則を犯す「恐ろしさ」と同時に反則した選手は
「汚い、恥知らず」という人格的蔑視を恐れたようである。
「サッカーは紳士を育てる」と言われた所以はここにあったのである。

『サッカー人間学 マンウォッチングⅡ』(デズンド・モリス著 小学館 1983年)には
オフサイドトラップに関して次のように書いている。

オフサイド条項を逆用して、特殊な守備戦術が考案された。これがオフサイドトラップの名で知られるもので、
守備側選手全員が素早く前方に移動して、相手選手をオフサイドに陥れようとするものである。
試合のルールに従えば、取り残された相手選手には全く利益を得ようとする意思などないのだから、
このような策略が成功する可能性はないはずである。
選手はだれでも、相手に強制されて“悪意”など持ちようもないはずなのに、
オフサイドトラップがチームによって常套手段となり、
ルール自体を有名無実にしてしまっている。

 

次回からは、オフサイドトラップはどのような影響をサッカー競技や競技者にもたらしたのかを考えて見たいと思う。




2015.5.24
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 オフサイドルール再考―その11

 

前回にデズモンド・モリス著『サッカー人間学』の中に述べられている
オフサイド・トラップに関する一文を紹介しました。
それは、

「オフサイド条項を逆用して特殊な守備戦術が考案された。
オフサイド・トラップの名で知られるもので、守備側全員が素早く前方に移動して、
相手選手をオフサイドに陥れようとするものである。
…中略…
オフサイド・トラップがチームによっては常套手段となりルール自体を有名無実にしてしまっている」

というものである。

『サッカー人間学』が日本で出版されたのは1983年のことであるから、
それ以前にデズモンド・モリスはオフサイド・トラップをチームの戦術として用いた試合を見ていたに違いない。
私は昨年、そのことを裏付ける一冊の本に出会った。
それは、トーマス・ブルスィヒ著(独)『サッカー審判員フェルティヒ氏の嘆き』(2012年)である。
物語は審判フェルティヒ氏の独白劇、モノローグとして書かれている。その一節を紹介する。

 

1980年にベルギー代表チームがそれまで知られていたオフサイドトラップよりも
精密さ、狡猾さ、つまりはその効果においてはるかに優ったオフサイドトラップを開発した。
 この年のヨーロッパ選手権では、ベルギーゴールに向かったほとんどのあらゆる攻撃がオフサイドになった。
本来のサッカーの実力ではベルギーよりもはるかに大きなポテンシャルをもったチームが勝てなかった。
みんなオフサイドトラップにひっかかってしまったんだ。
世界サッカーにとって、それまで、そしてそれ以後も何の役割も演じていなかったベルギー人が、
このときばかりはヨーロッパ選手権の決勝まで進んだ。
 彼らはオフサイドトラップの仕掛けをシステム化して、まさに芸術の域まで高めたことで
相手を否応なくオフサイドに追い込む戦術の革命を起こしたんだ。

 

最初の行に「それまで知られていたオフサイドトラップよりも」
と言っていることについて少し説明をしておきたい。

前回述べたように、FAが誕生して間もなくのころ、英国ではプロのチームが生まれた。
1882年にはNotts Countyというチームが、相手チームが前線にいる味方選手にボールを蹴る時を見計らって
バックの1人または2人がタイミングよく前進してその相手選手をオフサイドの反則にしてしまう戦術を用いたのである。
このオフサイドトラップの構図はあまり変化することなく続いていた。

時代とともにチームのシステムは変わっていくが、
試合中のセンターフォワード(CF)に対してセンターハーフ(CH)がマークする形、
両ウィング(RW、RW)に対してそのサイドのバックがマークに当たるというマンツーマンの守備であった。
中盤で相手から中距離パスやロングパスが送られてくるような局面では、
FWとBKの1対1の駆け引きとしてオフサイドトラップが存在していたのである。
マークするバックはこのオフサイドトラップをかけることによって
労せずして相手の攻撃を摘み取ることができたのであった。
バックは自分のマークする相手選手が自陣に向かって戻る動きに合わせて
常に相手選手をマークしながら前進したのである。

 

日本にチームの戦術としてのオフサイドトラップが伝わって来ると、試合の様子は一変したのである。
守備側はボールを奪い前線へボールをフィードするや全員が一斉に相手FWを置き去りにして上がってしまうのである。
ベルギー流のオフサイドトラップは、あっという間に高校から大学、社会人のチームに広まった。

このころの試合では実に滑稽なことが起きていたのである。
それはオフサイドトラップをかけたバックスは味方が前線でボールを奪われて、
逆に相手からボールが送られてくると一斉に手をあげ中にはオフサイドと大声をあげて副審を見つめるのである。
副審の旗が揚がるや今度は主審を見るのである。
つまりオフサイドの判定を求めるのである。
副審はオフサイドの判定をボールが蹴られた瞬間に行わねばならないから
多くの副審はボールの方向をあまり見定めることなく旗をあげ、
主審は副審の旗があがるとオフサイドの笛を鳴らしてしまうのであった。

さて、このオフサイドトラップが開発された当時の競技規則はどのようなものであったろうか。
1980年の競技規則 第11条オフサイド を以下に原文通りに示す。
オフサイド1980

2015.6.24
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オフサイドルール再考-12

 

フェルティヒ氏の独白は続く。

・・・このオフサイド革命にはより重大な意味があった。
ベルギー人たちは相手チームのプレーヤーをルール違反へと何度となく追い込むシステムを用いることで、
ルールを自分たちのために利用したんだ。
そうすることで、やつらはルールを利用しただけ〔では〕なく、まさにサッカーというゲームそのものの意味を変えた。
というのもこれでサッカーでは、相手チームがルール違反をするように挑発することが試みられ始めたからだ。
ルールは、守るためのものではなくなり、相手チームを陥れるためのものになった。
(略)この戦い〔両チームの争い〕での最初の犠牲者は、審判である俺だ。
なぜなら、プレーヤーたちが俺のことを自分たちのチームに、12人目のプレーヤーとして引き入れようとするからだ。
やつらは、俺がやつらの誘導どおりのホイッスルを吹くことを期待しているのだ。
(略)彼らはある時はホイッスルを手段として、ある時はワンツーパスを手段としてプレーをするわけだ。 
p.64-65

 

たとえば、「FWがペナルティーエリア内にボールを持ち込み、DFに足を出されて倒れると、
ペナルティーキックを期待して倒れたプレーヤーは主審の方に視線を送りよく見ていたかどうかを確かめようとする。
まわりの味方選手も主審にアピールする」のはよく見かける場面である。
本当は相手の足に引っかけられていないにもかかわらず、その振りをして自チームに有利な判定を主審に要求しているのだ。
つまり競技規則第12条のペナルティーキックで罰する規則を利用して有利な判定を引きだそうとするのである。

 

フェルティヒ氏の独白は更に続く。

・・・あのベルギー〔チーム〕の連中以来、ルールが試合をコントロールすることはなくなってしまったんだ。
あのベルギー・チーム以来、ルールは試合に引きずり込まれ、試合に押し込まれ、解釈し直され、利用され尽くされた。
サッカーでは、ルールを「プレーする」ようになったのだ。
(略)俺たちも、試合の中へと引きずり込まれた。好むと好まざるとにかかわらず、俺たちは試合の内部に叩き込まれた。
試合の展開に巻き込まれたんだ。(略)一方のプレーヤーが相手に反則を犯させようとして、他方がそれを防ごうとすると、
それはもう「演出」の問題になる。
(略)ここで演じられるのは、「あいつ、反則した!」っていう芝居、そして「いや、やってない!」という芝居だ。
(略)ピッチに登場する時点では、まだ選手はクールなプロフェッショナルで、男らしいイメージを、不屈の男を演じている。
だが、ほんの数分後、そいつは最悪のインチキ、最低の子供だましと言ってもおつりがくるような人間になっているんだ。
そろっと触られただけでも、まるでこっぴどく殴りつけられて、暴行を受けたかのように、もんどりうって地面に倒れる。
一方で、相手チームの選手を蹴飛ばしてプレーできなくしても、知らんふりをする。
「あいつになん
か、ぶつかっていませんよ(略)」。
こっちの選手が大げさに作り話をすれば、あっちの選手は事実を隠し、「そんなことしてない」と言う。
 【p.67-68

 

 

ルドカップに見るモラル(スポツマンシップ)の喪失

 

マラドーナの神の手

 

第13回ワールドカップ メキシコ大会 1986年

アルゼンチンは2度目の優勝を飾りマラドーナの大会ともいわれた。

準々決勝 アルゼンチンイングランド  

アステカスタジアム 観衆11万4580人

前半を互いに無得点で後半に入った。51分、イングランドゴール前にボールが送られた。
GKシルトンとマラドーナがジャンプ、マラドーナが一瞬早くボールに触れてゴールを割った。
観客席からは手で押し込んだのか、バックヘッドでシュートしたのか判然としない。
目の前にいたシルトンはすぐ「ハンド」をアピールしたが主審はゴールと判定した。

マラドーナという世界有数の名選手がハンドリングで得点をしたことを主審、副審は見抜くことが出来ず、
11万超の観衆は彼がヘディングで得点したと驚喜した。
彼は得点したことで両手を開いてグラウンドを駆け巡ったのである。
TVカメラだけがその瞬間をとらえていた。

試合後、マラド-ナは「あのゴールは神の手で決まった」という名せりふを残した。
彼は自ら反則したことを認めたのである。
この後、マラドーナは5人抜き、60mのドリブルで2点目をあげた。
試合後、メンバーの一人、バルダーは「あの最初の(神の手)のゴールがあったからこそ、
あの2点目がどうしても.必要だったんだ」と述べた。

アルゼンチンがイングランドに2-1で勝利して優勝につながった試合であった。

主審の見落としというとがが残るのみで、5人抜きの超美技が彼の悪行を覆い隠してしまった。
主審はまさかマラドーナが自分を欺くとは夢にも思っていなかったであろう。

 

再び神の手  今度は守りの場面で

 

第14回ワールドカップ イタリア大会 1990年

アルゼンチンは6月13日ナポリで、ダークホースに挙げられていたソ連と第2戦をおこなった。

11分アルゼンチンGKが負傷交代した直後、またも、マラドーナの「神の手」のシーンがやってきた。
1986年の時とは違い、今度は守りの場面、ソ連のCKからのボールがアルゼンチンゴールを襲うピンチ。
マラドーナがソ連のシュートを右手ではたき落とし、相手の先制点を阻止したのである。
「とっさに手がいってしまった」とマラドーナも認めた反則。
しかし、主審にはその瞬間が死角に入って見えなかったのか笛を吹かなかった。ソ連は勝機を逃した。 

マラドーナは守りから攻撃に転じ、27分彼のCKからトログリオが得点、28分にはブルチャガが加点して勝利した。
アルゼンチンは決勝トーナメントに進み、ブラジル、ユーゴスラビア、イタリアを破り決勝に進んだ。
決勝戦は西ドイツに1-0で敗れた。

その後もマラドーナはサッカー界の英雄として君臨した。

この大会のテレビ視聴率は過去最高となり、167か国、267億人がこのマラドーナの違反行為を見た。
「サッカーは紳士のスポーツ」は死語となったのである。

2015.7.20
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オフサイドルール再考-13

FIFAの闘い

 

ワールドカップにおける1試合平均の得点数    FIFAのホームページより
WorldCup

1980年以降のワールドカップの1試合平均の得点数は、
上表で明らかなようにイタリア大会において最低の2.21になった。

1980年にベルギーによってオフサイドルールを逆手に取ったオフサイドトラップ戦術が作られて以来、
急速に各国に広まったからに他ならない。

当時、サッカーの得点が著しく減少したことが危機感として語られていたことを思い出す。

FIFAはこの問題を打開する方策を打ち出した。この得点の減少の主要因は
オフサイドルール自体から来るものと審判によるオフサイドルールの適用からくるものにあった。

FIFAは得点の機会を増やす方策に取り組んだ。
これは、FIFAにとっては、まさに闘いとも言えるものであった。

 

オフサイドの条文の変更

 

その第1が第11条オフサイドの条文の変更である。

1989年までの競技規則第11条オフサイドは以下の通りである。

 

競技規則第11条オフサイド

1 ボールより相手側ゴールラインに近い位置にいる競技者は、
次の場合を除いてオフサイドポジションにいることになる。

a)その競技者が競技場の味方側半分以内いるとき

または

b)その競技者より相手側ゴールライン近くに相手側競技者が2人以上いるとき


2.ボールが味方競技者に触れるかプレーされた瞬間に、オフサイドポジションにいる競技者が

a)プレーか相手競技者に干渉している

b)オフサイドポジションにいることを利用しようとしている。

と主審が判断した場合のみ、オフサイドが宣告され、オフサイドの罰則が適用される。

 

3.次の場合には、競技者はオフサイドを宣告されない。

a)ただ単にオフサイドポジションにいるとき

b)ゴールキック、コーナーキック、スローインからのボール、または主審がドロップしたボールを直接受けようとするとき。 (以下略)

 

FIFAは1990年に第11条オフサイドの改正を行った。

改正部分のみを記す。

 

1 (bその競技者が少なくとも2人の相手競技者より相手側ゴールラインに近い位置にいないとき

 

オフサイドに関する図解にこの改正点を明示した。

 

図及び公式決定事項
Not Offside
Not Offside 2

 

公式決定事項

(2)後方から2人目、あるいは最後方にいる2人の相手競技者と
同じレベルに競技者はオフサイドポジションにいることにはならない。

 

1990年版の序文は例年にない論調で記述されておりFIFAの意図を伺い知ることが出来る。
その部分を抜き出すと次のように述べられている。

 

この版にはFIFAワールドカップ会期中の1990年6月28日にローマにおいて開催された
国際評議会の年次総会で承認された競技規則と解説が含まれている。  (中略) 

第11条の改正にはー文章上では小さな改正であるがー重要な変更が含まれている。
改正の真の目的は、より攻撃的なプレーを奨励しようという点にある。

また、この版には国際評議会の決定した強制力を持った指示が含まれている。
それは得点の機会を身体を使った不法な方法で阻止しするような「著しく不正なプレー」を抑止しようと意図したものである。  (以下略)

 

「文章上では小さな改正である」と称しているが、決してそうではない。
競技規則が17条の条文に整理されて公布されたのは1937年であるから、
それから実に53年を経ての改正を行ったのであるから極めて大きな意味を持った改正であった。

イタリアワールドカップは1990年6月8日の開幕であったから
国際評議会のメンバーは1次リーグの状況を見極めた上での結論であったと考えられる。

ただ、条文の文言は依然として法律文様式のわかりにくい「逆説的」言い回しになっている。
しかし、公式決定事項では「後方から2人目、あるいは最後方にいる2人の相手競技者と同じレベルにいる競技者はオフサイドポジションにいることにはならない」
という極めて解り易い表現となった。この文章が条文になるのは、なお数年後のことである。

 

主審によるオフサイドの判断

 

得点減少のもう一つの要因に審判によるオフサイドルール適用のことが考えられる。

これは、第11条第2項の

ボールが味方競技者に触れるかプレーされた瞬間に、オフサイドポジションにいる競技者が

a)プレーか相手競技者に干渉している。

b)オフサイドポジションにいることを利用しようとしている。

主審が判断した場合のみ、オフサイドが宣告され、オフサイドの罰則が適用される。

3.次の場合には、競技者はオフサイドを宣告されない。

a)ただ単にオフサイドポジションにいるとき

b) ()

 

オフサイドの反則か否かの判断は主審にあり、オフサイドポジションにいる競技者が
a)プレーか相手競技者に干渉しているか、() オフサイドポジションにいることを利用しようとしているか。
あるいは、ただ単にオフサイドポジションにいるだけなのかどうかを判断する問題が生じる。

この判断には競技者がオフサイドポジションにいるという事実関係の他に競技者の意図に対する主審の推測が入ることから、
チーム側はいかにしてオフサイドの反則を免れて自チームが有利になれるかの、通称「オフサイド破り」の戦術をいろいろな形で試みるようになったのであった。
そして、FIFAはこれへの対応を余儀なくされたのである。

オフサイドルールはチームの駆け引きの道具とされ、審判はその狭間に立たされた観があった。

FIFAの闘いはつづく。

2015.8.17
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